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2011年4月16日土曜日

静岡県蹴球史 #02 静岡師範蹴球部 「宿敵埼玉」登場

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「静岡県蹴球史 #01 静岡師範蹴球部誕生」の続き。


大正後期の蹴球界

1917年(大正6年)、初めて蹴球日本代表が組織された。ただし、これは現在のような選抜チームではなく、東京師範改め東京高等師範蹴球部(現・筑波大蹴球部)の単独チームである。これは東日本最強の東京高師に他地域のチームが代表権をかけて挑戦する選考方法であった。しかし、関西代表の御影師範は上京せず、豊島師範(現東京学芸大学)との試合も行われず、結局は東京高師が初の日本代表になる。

晴れの舞台は初芝で開かれた第3回極東大会。しかし結果は、中華民国に0-5、フィリピンには2-15と惨憺たるものだった。中華民国はその殆どが英国領香港出身の選手で占められており、彼らは英国直伝のフットボールを駆使するアジア最先端のチームであった

また、フィリピン代表は旧宗主国スペインの影響が色濃く残っており、スペイン・香港からの帰国子女組を中心に構成されていた。この試合に参加したパウリノ・アルカンタラもフィリピン生まれのメスティーソではあったがカタルーニャ人と呼ぶ方が相応しく、15歳でFCバルセロナトップデビュー、19歳でカタルーニャ代表、24歳でスペイン代表に選ばれ活躍している。なお彼はFCバルセロナの最年少出場記録と最年少ゴール記録及び最多ゴール記録の保持者でもある。


大日本蹴球協会誕生

日本は未だ全国大会は疎か全国を統べる蹴球協会すら無く、これらアジア諸国に二歩も三歩も遅れを取っていた。しかし、大会の結果はともあれ、これを期に日本全国で蹴球熱が高まりを見せる。以下は大会後に起こった出来事。
  • 1917年 東京高師、青島・豊島両師範OBが東京蹴球団を発足(月日不詳)
  • 同年10月 奈良師範主催で日本初の蹴球大会である近畿蹴球大会が開催
  • 1918年1月 大阪毎日新聞社主催日本フートボール優勝大会が開催
  • 同年1月 新愛知新聞主催東海蹴球大会が開催
  • 同年1月 東京蹴球団主催関東中等学校蹴球大会が開催
  • 同年10月 英国外交官ウィリアム・ヘーグ主催で日本初の蹴球リーグである英国大使館杯争奪リーグが東京で開催 
特に関東・東海・関西で同時に起こった大会は、英国大使を始め海外特派員には「全日本選手権の地方予選が始まった」と映ったようで、その模様が誤って英国に伝わる。さらに、上述のウィリアム・ヘーグの働きかけもあり、1919年3月には駐日大使を通してFAより大銀杯(FAカップ)が日本に贈られて来る。そこには「日本蹴球協会の設立を祝して、全日本選手権の優勝チームに」と記されていた。が、当然この時「日本蹴球協会」は存在していない

1919年と言えば日英は同盟関係にあったものの、中国での利権がぶつかり始めた時期でもある。俗に言う対華21ヶ条要求が1月にパリ講和会議で承認され、未だ第1次世界大戦の傷が新し英国はこれを危惧、駐日大使に至っては「日本人の感情を害することなく、かなりの礼節を持って日英同盟を葬り去らねばならない」と考えていた。日英同盟は1922年のワシントン会議で破棄されるがそれ以降も英国の「日本重視」の姿勢は続く。

英国連邦加盟国にしか贈られない大銀杯が日本に贈られた背景に政治が絡んでいたことは確かだろう。

しかし、大銀杯を受け取る肝心の「日本蹴球協会」が無い。そこで当時、スポーツ界の重鎮であり大日本體育協會会長の嘉納治五郎は、「この際、急いで造らせよ」内野台嶺に協会設立を厳命する。内野はウィリアム・ヘーグや体育協会の理事らの協力のもと1921年9月10日に大日本蹴球協會を創立、かくして日本サッカー協会は誕生した。


「宿敵埼玉」登場

日本に大銀杯が贈られてきた年に静岡師範蹴球部は誕生した。創部当時のユニフォームは、
上着が白の半袖シャツで左胸に「SNF」=シズオカ・ノーマル・フットボール部の略称=のマークが入っていて、パンツは黒。当時としては中々粋なもの
だったらしく、現在これに近いものは静岡県下では浜名高校のそれである。ちなみに「ノーマル」は師範学校を示す「Normal School」のものである。

浜名高等学校サッカー部

静岡師範は、蹴球部創立の翌年に隣近所の静岡中にフットボール部が発足、格好の練習相手を得る。「旧静岡市」に限って言えばこの2校がその後の源流となる。静岡中学は後に黄金期を築きあげるが、創部当時は学制の違いから師範生とは体格差も年齢差もあり、「胸を借りる」感じだったらしい。

静岡師範は1921年(大正10年)の紀元節を記念して行われた東京蹴球団主催の「関東中等学校蹴球大会」に参加する。初戦の相手、独乙協会中学(現獨協大中・高)とは東京の日比谷公園で対戦しスコアは0-0に終わる。しかし当時、未だPK戦はなく、この大会の勝敗決定方は、
味方のCK数+相手のゴールキック数の多い方が勝利
であったらしい。この「最後までシュートに持ち込む・1本も打たせまいとする敢闘精神」に重きを置いたと思われる判定法について、当時GKを務めた小花氏は生前、
最近は得点を防ぐにはCKに持ち込むなどの手段を取るが、その頃は得点を防ぐのと同じぐらいCK、ゴールキックを相手に与えないよう注意した。特に独協中との対戦は泥の中での試合となり、相手のシュートがゴール前で再三止まった。やれやれと思ったことが何回もあり、今もその様子が目に焼き付いている。
と語っている。ともかく静岡師範はこの判定法により辛くも初戦を突破する。勝利の報せが母校に届くと、
紀元節式典に参列した母校教職員は感激し、早速激励電報を打った。
とも述べている。更に、この試合では、ピッチが泥状態になるような状況にもかかわらず、観覧席が無いピッチの周りを三千~四千人もの観客が囲って盛んな声援を送っており、極東大会以後、東京での蹴球熱の過熱ぶりが伺える。

静岡師範は1923年(大正12年)の大会では強敵を向こうに回して準決勝まで進出。対戦相手は埼玉師範(現埼玉大)、勝てば初の決勝戦進出であった。

時代が時代なら「両雄相見える」と謳い文句を付けたいところだが、大正後期の両県は未だ強豪と呼べるほどの実力はなく、共に東京・兵庫・広島の「御三家」の後塵を拝する立場である。しかしこれが後年の高校サッカーやJリーグおよび各種年代で死闘を繰り広げる静岡勢と埼玉勢の初対戦であった。

結果は10年の長がある埼玉師範が静岡師範を破ったことだけは伝えられている。試合の詳細は残っていないがスコアは1-2であったらしい。

(続く)

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